記憶をめぐる自分と母の違いを考える。

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Hey Paul Stadios  / CC BY 2.0

うちの家はとにかくおっちょこちょいの家系だ。家のなかではいつも誰かが何かを探している。

でも、そういう家系に生まれたからと言って、世の中を生きていくのにそう困難があるわけでもない。僕らには記憶をたどるという機能がついているから、なんとか「そいつ」を探し出すことができる。自分が見つけられなくても「あそこにおいてあったよ」と、家系の違う妻からの助け舟もある。子どもたちに「またか!」とあきれ顔をされるのはご愛嬌だろう。

たとえば、バックにいれておいたマフラーを忘れたとする。今日は電車に乗ってデパートに行った。昼は暖かかったのでマフラーはバッグに入れっぱなしだった。デパートについてショッピングをする。デパートではバッグは開けたがその時まではあった。なぜなら、帰りの電車はホームで長く待つことになり、寒くてマフラーをした「記憶」がある。きっとそのあとどこかに忘れたに違いない。そうだ、電車の席についたところで、網棚の上にバッグをあげた。あのときにマフラーはどうしたろう?バックには入れなかったか。そろそろ到着駅だって頃に寝過ごしそうになってあわてて電車を出たんだった。で、バッグはここにある。そうか、あの時の網棚に忘れたに違いない。じゃ、鉄道会社に連絡しよう。

こんな具合に記憶の糸をたぐり、どこで忘れ物があったかを探っていく。ところが認知機能が衰えてくると、これができない。

そういえばあれはどこにおいたかな?と思っても、自分の行動を思い出すことができなければ、探し物はかなり困難になる。健常者でもお酒を飲んで記憶を失うこともある。こんなときに何かを無くしているとひどい結果になるものだ。

僕も母と同じくらいいつも何かを探している。だが、探す行為にそう時間はとられない。財布はどこにおいたっけ?そうだ、さっきクルマに乗った時に免許証が必要でクルマのドアポケットに入れたんだっけ。そう思い出して行動に移す。ところが認知機能が衰えた人はどうだろう。お茶を飲もうとするが急須がない。僕らならさっき居間でお茶を飲んだことを覚えている。きっとこたつの上にあるんじゃないかと推理ができる。その結果、居間に行ってちゃんと探し出すことができる。台所だけを探しても見つけることはできない。

認知症になってもそう性格に変化はない。現在の時点で起きていることは以前も起きていたことだと考えられる。だが、現在と過去がつながらないと大きな差が生まれてくる。

僕らは今、この瞬間も現在と過去をつなぎながら生きている。それは健常者にとっては当たり前の能力だ。だが、認知症を患うと過去とつながりづらい。あんなことがあった、こんなことを言われたと、僕らの脳は思い出す。だが、彼らには思い出せないことも多い。未来に不安を持ったとしても、その不安もまた過去となり消えていく。彼らは常に今を生きているとも言えるだろう。

と、こんな記事を書いていると、母が事務所に顔を出し、「友だちにもらった白菜の漬物を彼のクルマにおいてきちゃった」と言っている。わずか5分前、白菜をもらったよと言うから、台所にでもおいておけばと言った代物(/ω\)。

ま、そろそろそんな文章を書くのはやめにしろってことですかね。はいはい、わかりました。

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