認知症が地域に『鬼嫁』を生むメカニズム

『まだ、忘れたことを覚えているから、良い方ですね』

ある先生にこんなことを言われたことがある。そのときは「忘れたことを覚えていること」と、「忘れたことを忘れている」ことに、どれほどの違いがあるのかわからなかった。

だが最近、その違いがちょっとずつわかってきた。

忘れていることを忘れることから生まれる悲劇

たとえば、財布にあったはずのお金が少なくなっていたとする。物忘れがひどくなったと自覚していれば、「別のところにしまったのかも」とか、「きっと何かを買ったんだわ」と考えることができる。介護にたずさわる人が「別のところにあるから探してみよう」と言って探すことも可能だ。

ところが「自分が何かを忘れる」ということを忘れると「誰かが盗った」とか「お金をもらってない」と考えるようになる。

一方、介護する人はその人がモノを忘れることを知っている。お金についての混乱を避けるため、安全なところにしまってあげたり、預かってあげたりする。こちらはモノを忘れないから、その人の財布の中身はその人より詳しい。だから、お金がないと言われると「なにに使ったの?どこかにあるはずだよ」と答えてしまう。

モノを忘れたことがわかるうちは「また忘れちゃったかな」と、自分の記憶が不確かだとして自省もできる。だが、それを忘れてくると、その刃が介護者に向かっていく。「あの人がお金を盗んでいる」「うちの息子はお金をくれない」「嫁が私のお金を勝手につかっている」「あんたらの指図は受けない」といった事を考え始める。

噂が火に油を注ぐと「鬼嫁」が誕生する。

地域コミュニティでは他人の「噂」は蜜の味だ。そのことが真実かどうかは別にして、おぞましい尾ひれがついて広がっていく。あそこの息子はひそひそ、あそこの嫁はひそひそ。知らないところで「怪物」がプロデュースされる。

認知症の介護は家庭にいる人が担当することが多い。日本社会では男性が外に働きに出ることが多いから、その家のお嫁さんが認知症の人の面倒をみることが多くなる。自分の息子なら自分の血をわけた子どもだから悪くはいいづらい。一方、嫁いできた人は別の親が育てていて文化も違う。すると攻撃の対象になりやすい。地域社会でも「あそこのお嫁さんは“鬼嫁”らしいよ」となるとおもしろおかしい話題として消費されていく。

こうして普通のお嫁さんが「鬼嫁」に変貌させられる。その結果、その人の心を傷つけ、家庭のなかで負のスパイラルが生まれる。

こうしたことが認知症によって起きることを理解し、火に油を注ぐのではなく、火の延焼を防ぐようなコミュニティであって欲しい。そう思うのは認知症の介護に関わる人に共通する思いではないだろうか。

 

 

 

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